2014年8月18日 (月)

「T・I 家住宅」調査記録

R0020469                  主 屋
当住宅は、雷山川下流域の旧前原市泊地区に在る。歴史によれば、当地区と隣接する志登地区の間まで海が来ていたといわれるが、現在では干拓により南側に広大な田が広がる。
付近には、当家同様に大きな古民家がまだ数多く残されてはいるが、九州大学伊都キャンパスが北側に隣接しており、今後は大きく変化しそうな予感がする。
R0020474                 玄関土間
当住宅を見てみよう。外観は通常の古民家であるが、まず玄関を入ると、広い土間空間の中央に置かれた薪ストーブが迎えてくれる。
R0020475               コンサートホール
また土間右手の広い三間続きの和室二間は、床が畳敷からフローリング張に改造されていて大きなグランドピアノが置かれている。
R0020472                 二階広間
さらに、二階も壁などが取り払われ、磨かれた大きな梁で豪壮な空間となっている。まるで、すぐにでもカフェが営業できそうな雰囲気である。
当主の話では、娘さんが小沢征爾さんのオーケストラでも演奏するヴィオラ演奏家で、この古民家をコンサートホールとしても使うために改造されたとか。「とまり木コンサート」というタイトルでこれまで約10回開催されたそうだ。尋ねてはいないが想像するに、地名の「泊」と「木の家」でのコンサートということでネーミングされたのでは?
当主の祖父進氏により、約100年前の明治40年代に築造されたそうだが、子孫がこのような活用をしてくれるとは夢想だにしていなかったであろう。
R0020461                田中徹夫翁之碑
庭には大きな記念碑が設置されている。「田中徹夫翁之碑」当主の父の碑である。徹夫氏は県会議員や旧前原市長を歴任された人物であり、なんと、旧糸島中学校(現糸島高校)1回生として剣道で全国優勝を果たすなど高名な剣道家でもあったとか。元高校教師の当主も、その血筋を引き7段の柔道家である。
しばらくは空き家であった当住宅を、音楽家の道を進んだ娘さんが蘇らせる原動力になったことを聞き、ヴィオラの音色が鳴り響くこの古民家の幸せを感じた。
(2014年2月17日調査:瀬崎敏博)

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2014年8月16日 (土)

「N・K 家住宅」調査記録

R0019953_2                西側の道路面
当住宅は、旧福吉村吉井地区に在る。佐賀七山へ通じる旧街道筋に面し、周辺は歴史を感じさせる落ち着いた佇まいの住宅地である。
R0019947_2                主屋 南側正面
当家初代小助氏によって大正2年に建てられたその住宅は、築後100年を経ており、式台玄関を構え、その軒裏まで漆喰で塗り固めた土蔵風な造りは、近辺にあってひときわ重厚な雰囲気を醸し出している。
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            十坊山を背景に北側から望む
小助氏から4代目になる現当主の話によると、かって主屋周辺には土蔵や納屋、そして福吉製紙組合の工場などが建ち並んでいたとか。
福吉地区は、江戸時代の明和から昭和初期に至るまで製紙業が盛んであった。それは「福吉紙すき唄」という唄まで残されている程である。
R0019937_2          当家に保存されている吉井白保紙
この製紙業を始めたのが当家の本家であり当地区の庄屋であった楢崎多吉郎氏で、耕地が少なく農業だけでは生計が苦しかった農民救済のために、自ら製紙法を学び地元に広めたという。
小助氏は多吉郎氏から3代目になる分家ではあるが、製紙業を更に発展させるため明治43年に「福吉製紙生産組合」を設立。初代組合長として、また村長も勤めるなど活躍する。福吉の紙は販路を京阪神や朝鮮大邸方面にも広げ、最盛期の生産額は村歳出の3倍を超えたと記録されている。
R0019940                  座 敷
棟木に棟梁大庭◯◯と記されている。地元にはかって宮大工筋の大庭工務店や石工筋の大庭組があった。小屋裏の重厚な木組みや敷地の見事な石垣などから、多分その手によるものと思われる。繁栄を極めた当家が、地元の職人に大いに腕を振るわせたのであろう。
R0019954              「まむし湯」源泉
まむしに咬まれて苦しんでいる人々がその効力を伝え聞いて遠方からも治療に訪れ、一時期は部屋に入りきれず廊下に寝る程湯治客が多かった「まむし湯(伝承名:貴船湯)」。その源泉井戸も当家の所有地の中にある。
(2013年5月18日調査:瀬崎敏博)

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2014年8月15日 (金)

「M・K 家住宅」調査記録

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当住宅は、旧怡土村井原地区に在り、当地の氏神様である住吉宮の西側に接する。初代朝次郎氏の日露戦争復員後に、分家住宅として明治30年代に建造され建築後100年以上が経過していることになる。
当主婦人の話によると、井原地区の旧庄屋三苫家の分家筋にあたる朝次郎氏は秀才で日露戦争でも将校として功績があった。そのため、本家は養子に出さず田畑を分け与え、当住宅も造り与えたとか。
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その後、朝次郎氏は旧怡土村村長を勤めるとともに、俳人高浜虚子の愛弟子となり俳号「寸陽」として数々の俳句と書を残している。
R0019062_3           碧悟桐・寸陽・虚子の三俳人の句
当家を訪問すると、まずその庭野広さと花木の多彩さに驚かされる。90歳になる二代目当主が丹精込めて手入れされており、4〜5月の花の時期は見事である。
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そして住宅内に入ると、それはまさに文人の家である。襖に張られた書の見事さに圧倒され、また孫娘さんにその才が引き継がれたのであろう書画などの作品が数多く飾られている。
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当住宅の敷地は大きな杉、桧また槙の防風林に囲まれている。瑞梅寺川流域の水に恵まれた平野地である当地は井原山から吹き下ろす風が強く、東北地方ではこの防風林を「イグネ」と呼んでいるが、糸島地方では特に呼称は無いようだ。
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福岡市から日向峠を越えると目に入るこのような田園風景。それは主に旧怡土村地域で培われてきた風景であり、糸島が魅力ある糸島であり続けるためには、これからも大切に保全していきたい景観財産である。
(2013年4月21日調査:瀬崎敏博)

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2014年8月 2日 (土)

「H・T 家住宅」調査記録

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当住宅は、旧唐津街道前原宿界隈の老松地区に在る。明治39年の建築で107年が経過していることになる。
当主の話によると、商家の津田家住宅として建設されたものを医者をしていた祖父安吉氏が明治42年に購入したとのこと。
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祖父安吉氏は旧雷山村三坂地区の古庄屋である波多江家の4男として生まれ、秀才の誉れ高く尋常中学修猷館へ進学。卒業後雷山小学校の訓導となるも、更なる向学心により上京し済生学舎に学び医師となり、各地病院に勤務後明治31年に前原にて開業。
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家の造りを見ると、唐津街道筋ではないためか商家住宅としてではなく純然たる町家住宅として建造されている。
主屋と座敷間とが離れ的に中庭を介して畳間で続いていて、京都の町家的な雰囲気であり、糸島地域では珍しい間取りである。
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板戸などにも金箔が施された豪華な造りとなっている。かっては通り庭だったところは改造されてはいるが、広い玄関に当時の面影が残されており、また裏庭には土蔵も現存している。
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また、昭和初期に病院として建てられた建物は、医家の二代目として医師になった当主の父が42歳で早逝したため、現在は取り壊されているが写真で見ると、寄棟・鎧下見板張りに洋式デザインが取り入れられており、当時としてはそのモダンさで周囲を驚かしたであろう。
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当住宅の場所は、糸島市の中心街区。近隣の建物の多くは時代の変化とともに建て替わっている。その中にあって、明治・大正時代の雰囲気を残す貴重な建造物として、今後も大切に保全・活用されて欲しい建造物の一つである。
(2013年2月10日調査:瀬崎 敏博)

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2014年7月31日 (木)

「K・G 家住宅」調査記録

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当住宅は、糸島市最高峰(標高983m)井原山の南側山麓に位置する37戸ほどの中山間集落である川原地区に在る。
当地区は、近年、福岡市早良区への県道56号線も整備され、またゴルフ場に隣接した温泉付き別荘地も開発されるなど、福岡都市圏の近郊行楽地として発展の期待が寄せられている。
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当住宅は、築後77年。現当主の四代前、農業と林業を営んでいた源七氏により昭和10年から11年にかけて築造された。施工は、近隣の高祖地区の肥村棟梁と大門地区の藤田氏の手によるものである。
主屋、納屋、土蔵などがあり、延べ床面積は約300坪。その規模の大きさもさることながら、大きな松梁は熊本の人吉から、杉・桧の良材は大分の日田から運ばれたと伝えられ、そして大黒柱には欅の4寸角、また廊下や格天井には桜などの銘木が使われている。
主屋の造りは、式台玄関を入ると左手側には三間続きの座敷があり、
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同玄関を真っすぐ進むと商家に見られるような吹き抜けの間がある。
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それに続いて居間や寝室などが、面白いことにそこには丸や四角のトップライトが設けられている。
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現当主に農家住宅には珍しいこれらの造りを質問したら、「よく判らないが、当時は金融業もしていた。」とのこと。
推察するに昭和初期の頃、農林業は大きなお金を生み、そのお金の運用でさらに財をなした先代が、明治以降の身分制度廃止とともに建築様式も自由になり、かつ洋風の技法も伝搬された当時にあって、農家にとって憧れだった武家や商家などの住宅建築様式を取り入れたのであろう。贅を尽くしたその造りに当時の当家の隆盛が偲ばれる。
(2013年2年17日調査:瀬崎 敏博)

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2014年7月30日 (水)

「A・S 家住宅」調査記録


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旧前原市有田地区の県道前原線から同大門有田線へ曲がると、いかにも歴史を感じさせる3軒の大きな家が並んでいる。かって「コウジヤ」「オク」「シュウジ」という屋号で呼ばれた3軒のいずれもA姓を名乗る住宅である。(現在、中央の屋号「オク」の家は売却され別姓になっている。)
当住宅は、その内の右側「シュウジ」という屋号の家で、言い伝えによると江戸時代末元治元年(1864年)の建築とされ、築後約150年が経過していると思われる。
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また当家は、その家系図によると高祖城城主原田家の家臣「有田因幡守」に遡る室町時代から続く武家の血筋であり、正面の式台玄関にその家格を偲ばせる。
現当主の話によると、亡曾祖父や亡祖父は旧雷山村の村長や消防団長を勤めており、当時そのような役職を勤めると費用支出が大きく財産を失うことになると言われ、多分に漏れず当家も費用捻出に多くの田畑を売却したとか。そのために戦後の農地改革による農地没収にはあわずに済んだ、と笑って話されていた。
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当家には写しではあるが家相図が残されている。それによると現在の母屋の他に、南側道路に沿って馬屋や収納屋等からなる納屋門、また西側隣家に沿って土蔵、湯殿や味噌部屋等からなる納屋、さらに北側には薪小屋がある。しかし現在、母屋以外はいずれも残っていない。ただ、戦後間もない昭和20年代に解体し移築した土蔵は、近所で現存しており住宅として活用されているとのこと。
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当住宅は一部改造されているものの、建築当時の風情を式台玄関や三間続きの座敷等に色濃く残しており大切に管理されている。また、土間表口の八寸角の欅大黒柱前や至る所に飾られている花に、この家の伝統を守る主人の愛情を感じた。
(2012年9月2日調査:瀬崎 敏博)

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2011年8月14日 (日)

「K・T 家住宅」調査記録

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当住宅は、安政年代に遡る代々続く旧家で旧前原市三坂地区に在る。
当地は、雷山中流域の平野地で周りは水田に囲まれた場所であり、その集落は雷山から吹き下ろす風が強いのか、東北地方に見られる防風林「イグネ」に似た樹木に囲まれている。

当家は、元々雷山上流域(当家では「古屋敷」と呼んでいる)に在ったが、曾祖父の代に所有農地の作業利便性のため、明治年代に入り当地に移り住む。
現存する当住宅の主要な部分は、その時(明治13年3月)に建造されたものである。また、旧住宅も、現在の当主が幼少の頃まで現存していたそうだ。
庄屋筋にあたる当家は、その最盛期には数十町歩の農地を所領していたと聞く。

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当住宅は、現在、母屋、土蔵、納屋から構成されている。しかし、現在及び先代の当主が公的勤めが長かったためか、現在においては農家的な使われ方はされていないようだ。
当主の話によると、昭和30・40年代に、土蔵はかつて敷地南側に建っていたものを曵き家し現在の形になり、池を造り、昭和63年には、玄関や二階乗せを含む大規模な増改築を行ったとか。
これらの話から、この住宅の明治年代当初の姿を想像すると、南側道路沿いには土蔵と納屋が建ち並び、ニワも観賞する「庭」ではなく作業の場として「ニワ」があったと思われる。

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当地に移り住んでから130年。先に記した増改築時に祖父から残すように言われた三間続きの座敷や屋敷林のヒノキに、当時の面影がしっかりと残されている。
(調査記録者:瀬崎 敏博)

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2011年8月 9日 (火)

「白糸酒造(T・N 家住宅)」調査記録

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               正面(東側)

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               酒蔵(北東側)

白糸酒造は、安政2年(1855年)に創業し今にいたる糸島市唯一の造り酒屋で、旧前原市本地区に在る。
ここは、白糸の滝を源流とする長野川流域の肥沃な平野地。水に恵まれ、糸島でも特に品質の良い米が収穫される地域でもある。また、周辺の水田では酒米用の品種「山田錦」を栽培しており、美味しい酒造りに欠かせない上質な水と米が全て地元で調達できるという恵まれた立地である。


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                ハネ木

白糸酒造といえば「ハネ木搾り」による酒造り。
当主の話によると、機械搾りに比べ圧力の弱い昔ながらのハネ木搾りという方法は、絞れる量が少なく効率の悪い方法である。でも、このやり方が美味しい酒が出来ると、品質にこだわる先代の当主が残してくれたそうだ。そして、現在の当主もそれを大切に受け継いでいる。


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               母家(座敷)

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                酒 蔵

安政2年創業当時の建造物は、上掲写真の座敷のある母家とレンガ造りの煙突のある酒蔵が現存し、白糸酒造の看板施設として使われている。
その内部には造り酒屋ならではの拡張高い空間が広がり、その柱や梁の色艶に160年の歴史の重厚さを感じることが出来る。
現在、ハネ木を設置しているのは昭和年代に入り増築した酒蔵だ。この蔵は二階建てになっており、二階は道具置き場として使われている。
下の写真の阿弥陀車と呼ばれる滑車は、二階への道具の上げ下ろしに今も現役で活躍している。


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                阿弥陀車

白糸酒造では、息子さんが当主のもと修行中で、将来はこの糸島の恵まれた環境を生かし、フランスのブドウ畑の中のワイナリーのような酒造場にするのが夢だそうだ。その夢を、私たちも応援したいと思う。
(調査記録者:瀬崎 敏博)

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2011年7月17日 (日)

「N・I 家住宅(旧鍋山酒造)」調査記録(後編)

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その千坪を超える敷地には、かつて街道筋に沿って敷地を取り囲むような形で酒蔵が建ち並び、鍋山酒造の酒は「福息子」の名で販売され、最盛期には千石を出荷していた。それに、創業から昭和43年に操業を停止するまで煙を吐き続け、平成2年に取り壊されるまでの90年余の間、高さ15.5mのレンガ造りの煙突がそびえ立ち、深江地区の位置を遠望出来るシンボルになっていたとか。

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また、当主の説明によると、当地は酒造りに適した米と水に恵まれており、背振山系からの山水は良質な米を作り、その伏流水は海水と出会うことでミネラル成分を多く含み、酵母の発酵を助けおいしい酒になる。祖父はそのことを調べた上で当地を選んだのではないかと思うとのこと。

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             糸島の酒米「山田錦」

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             今も使われている井戸

母屋は、鍋山家において昭和初期に大規模な増改築が行われ現在の形となっているが、平成17年の福岡西方沖地震で屋根瓦などに被害を受けた。しかし、現在の当主により、屋根の全面的な葺き替えや白漆喰の塗り替え改修などが行われ、昔と変わらない美しい姿で、白壁練り塀と共に、当地の町並み景観に貢献している。

(記録者:瀬崎 敏博)

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2011年7月12日 (火)

「N・I 家住宅(旧鍋山酒造)」調査記録(前編)

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               母屋(北側街道)

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             白壁練り塀(東側街道)

当住宅は、旧唐津街道筋の宿場町として栄えた深江宿(旧二丈町深江本町地区)にあり、銀色の燻瓦と白漆喰に塗り込まれた重厚な蔵造りの母屋は、その端正な姿で、当地にあって圧倒的な存在感を持つ。

当住宅の変遷を聞くと、現存する母屋の主要な部分と母屋に繋がる旧酒蔵は、中津藩領時代の大庄屋であった堤家が嘉永6年(1853年)に築造したものを、明治年代に入り現当主の祖父が譲り受けたもの。
当時、旧早良郡金武村で酒造業を営んでいた鍋山本家から分家し、明治32年に鍋山酒造(屋号:丸屋)として、現在地で創業したそうである。

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               母屋(玄関土間)

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                 旧酒蔵

築年代を示すものとして、酒蔵の神棚裏には「嘉永6年:堤◯◯」と書かれており、また、母屋の神棚には「聖武天皇御製・・・万延元年:堤◯◯◯」と書かれた桐箱入りの書き付けが御供えされている。(後編に続く)

(記録者:瀬崎 敏博)


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